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気まぐれなつぶやき 「カルチャーセンターに行ってきました!」

もう九月なのに、相変わらず暑い暑い

去る9月10日の土曜日の午前中に烏丸丸太町の京都新聞社本社ビル7階にある京都新聞文化ホールにあの著名な井沢元彦先生の特別一日講演「さらに深堀!鎌倉幕府」~北条一族とは~の聴講に行ってきました。天候は薄曇りといったところですが当日の予想気温は軽く30°を超えて33℃とのこと。いやぁ~こたえるなぁ~と一瞬躊躇しましたが、聴講料大枚3千円は既に振り込んでおり、幸い雨は夕方までは降らない(実は夜19時~弱雨予想でしたが)とのことで思い切って出かけることにしました。ちなみに私の趣味の一つが歴史(特に日本史の神代・伝承時代~中世まで)探訪でして、大病を患うまでは、書籍の乱読・読み漁りや神社・仏閣訪問は勿論全国各地の古墳探訪まで車を飛ばして休日はゆっくり休む間を惜しんで出かけておりました。今も少しその習性が残ってますが・・・。その辺のお話しは、おいおいにでも・・・。

古墳といえば・・・そうそう私がご縁あってこのカラフルラットに通所を決めた最後の大きな理由の一つが、カラフルラットのホームページに皆さんご存じと思いますが、色んな方が交替で面白いステキなエッセイを書かれてましてその中のNさん?でしたか、信楽や近場の面白い紀行記をよく書かれる方がいて、興味深く拝読しいている中である時、さらりと『継体天皇陵」に行ってきました!とのタイトルが私の目に止まったのです。えっ・何?あの、継体大王の古墳に興味持ってる人がこんなところにいるんだ!と正直驚きました。さておき、阪急茨木駅からの古墳途中のリアルなグルメ情報を織り交ぜながら、見事なまでの訪問記をまとめておられました。このエッセイに感心・興味を持って、ぜひこのお方にお近づきになって一度お話してみたいとの衝動にかられて、通所を決心した次第です。ごめんなさい!

金子所長様・・・m(__)m。

あっ、いや、とんだ脱線を・・。私の話はしょっちゅう脱線がつきものですのでご注意ください。

さっ、もとい。

 当日の会場は市営地下鉄「丸太町」駅下車して烏丸丸太町交差点を南に徒歩数分の京都新聞社本社の7階にある文化ホールでした。

私は勿論初めての訪問でしたので、どこに会場に行くエレベーターがあるのか分からずに他数名のご同輩の方々と、1階入り口付近でウロウロ・キョロキョロしてましたら、何と井沢先生が直々にお出迎いに降りて来られて、迷える我々を会場にわざわざ誘導していただきました。(とても人気の売れっ子作家さんなのに、なんて気さくな先生なのだろう!)とまず先生のお人柄に心打たれました。これで今日はいい話が聞けそうだ!と確信できました。

やや緊張しながら入場すると、60名定員の会議室らしき一部屋に

約8割ほどが埋まっており、ざっと参加人数50名かというところでした。この中でまず目を引いたのは、最前列にドンと陣取った女子大生らしき4人連れの女性組の1団が!これが噂に聞く「レキジョという人種か?」。なるほど、よけいなおしゃべりもせず、他に目もくれずに粛々と真剣にメモをとる姿勢は、なるほど上っ面だけの我々中高年の歴史好きのヒマ人とは心構えが違うワイ!と思わずエリを正してしまいそうになりました。

  【井沢元彦先生】

さて講師壇上に登場されました。テレビなどで拝聴するのと同じ聴きやすいソフトなトーンではじまりました。コロナ対策のため、お顔はフェイスマスクですっぽりおおわれており、せっかくのイケメンズラが台無しなのは時勢ながら仕方のないところか。聴けば現在は作家活動のかたわら、10年ほど前から京都伏見向島にある仏教系大学の客員教授をされておられるとのこと。やはりご縁を感じずにはおれません。この井沢先生の代表著書である「逆説の日本史」シリーズに出会えたことが、今の私の歴史好きに火をつけてくれたのです。

歴史に興味ある方は一度手に取ってご覧になることをおススメします。単行本はどうも・・・というかたには、雑誌「週刊ポスト」に連載もあります。コミック版もあります。ご参考まで。

さて、講演内容ですが、新たに学んだことは

①鎌倉幕府は〈将軍〉・〈執権〉・〈得宗〉の権力三重構造であったこと。最上位のはずの将軍はいわば執権・得宗のあやつり人形で

初代将軍源頼朝以外は何の権限や決定権もなかった。確かに御家人武士に対する命令書は将軍名で発行されるが、その内容は全て北条氏執権あるいは得宗が決めていた。将軍はその意向に沿って命令書にサインしてただけ、とのことでした。幕府中期以降は執権すらも得宗の傀儡になって幕府は得宗一人の集権独裁体制であったこと。ちなみに幕府最後の得宗が悪名高い(政治を顧みず、酒乱、闘犬に夢中)北条高時です。

さらにややこしいのは幕府中期になって、新たに北条家の執事役として内管領(ないかんれい)というのが台頭してきて御家人の取りまとめ役を行い、いわば執権代行として権勢をにぎり四重構造のような形になっていったとのことでした。その慣例は後の足利幕府

にも影響を与え足利家の執事となった高師直などに引き継がれた。

②三代執権・得宗の北条泰時(大河では坂口健太郎さんの役です)

は時政・義時以上の日本史上最高の武家大政治家である。その業績の筆頭が御成敗式目の制定である。あまりに過少評価されすぎで、もっと再評価されてもよい。

以上、今まで余り習ったことのない内容で新鮮な発見となった一日でした。「イイク二ツクロウ」鎌倉幕府だけ知ってても意味がナインですね!フム・フム!

ちなみに次回の先生の講演は12月10日(土曜)10時30分~

京都新聞文化ホールであります。タイトルは「頼朝なき後の鎌倉」です。ご参考まで。

PS:最後にもう一言だけ。講演最後に質問コーナーがあり、一人のやや年配の女性から、

「あの、戦国の小田原北条氏とこの北条氏とは繋がりがあるのでしょうか?」

至極まっとうで素朴な質問と思われますが、これは我々歴史マニアの中では半ば常識でして、男性ならまず質問しないところですが、内心(くだらん質問だなぁ~)と思っていると・・先生は、「いやぁ~これは・・・」と絶句されて(ほらね、先生も困ったはるがな・・)と思いきや「このご質問はですね。日本史の核心をついた実に鋭い質問でして・・」とおっしゃる。(え~っ、何が?どこが?)予想外の展開に・・・。

「ご承知のように答えは小田原北条氏鎌倉北条氏とは何の関係もありません、子孫でもありません。小田原北条氏の始祖は伊勢宗瑞(いせそうずい)といい(後に北条早雲と改名)、室町幕府の中堅役人の家柄です。そんな人が自身の姉の嫁ぎ先の駿河今川氏以外になんのツテや、ゆかりのない関東伊豆にポンと京都から流れてきて、優秀な人材に恵まれたとはいえ、後に関東一帯に覇を唱えられたのはあの鎌倉=「北条」という権威を借りて坂東武士を心腹させる必要があったから。」

(その為には先祖からの名門伊勢という苗氏をあっさり捨ててまで

北条にムリクリに改名する必要があったのです。」

「あの北条サンなら、しゃぁない、おとなしくついていこう。」と少なからず思ったはずです。

「それほど、坂東では北条という名前が室町将軍以上に恐れ多い権威として言わば言霊としてすっかりと根付いていたのです。」「それほどこの日本ではコトダマ権威は絶対なものなのです。」例をあげれば「カミカゼ」「朝敵」「怨霊」など。

「このコトダマ信仰こそが、日本史の原点であると私は考えております。」

フムフム・・。ナルホド、女性の視点も軽視デキマセンナ!

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