さてそれでは、ぼちぼちと・・・始めます。
今トリック・アートの住まいの行政区分は京都市右京区・・町です。
これはもう昭和時代も終わりのほうの呼び方です。
古代律令制に従うと「山城国」です。国が辞書にないので上手く変換できません。
京都府という行政区名も明治新政府が廃藩置県の際に、一方的に押し付けたものですので、他に丹波国や丹後国が含まれているわけです。周り見回すと、確かに山はある。ないのは南だけ。
では、城はどこにいったんや?どこにあるんや?
ある歴マニアの知人いわく、いやいやそれほんまは「名優 山城新伍」(すでに誰も知りませんわな!)の山城ではのうて「山背」(聖徳太子さんの息子さんの山背大王のほうの)が正しいのですわ。つまり奈良山の向こう側にある田舎の辺鄙な土地てな意味ですわな。だから城やあらへんのですわ。わっ、はっ、はっはは・・・、って妙に納得してる場合やない!
幼少期~高校卒まで、育った伏見区・・・町の家からは
山は3面にあるけどちゃんと、東を見ると白いコンクリ製の城郭がたしかにみえてましたよ。そう、「伏見城」です。稲荷山系南端にある確かな「山城」です。
築城主はあの天下人豊臣秀吉つまり「太閤はん」です。
日本はよく歴史・古を大切にする民族であると、よく海外から言われてると聞きますが、とんでもありません。これはいい加減なマスコミの宣伝文句です。その証拠に特に欧州では、領主・国王・土地の権力者達の住まいであった
歴史資産のお城は大事に大切に慎重に保存・修復されて現在に残っております。ギリシャでは神の住まいである神殿は数千年も保存されておりますが、日本では京都御所以外ではせいぜい数百年でしょう。当時のまま残っているのは実は大変少ないと思いますよ。例外は当時の天皇や権力者のお墓である「古墳」を除いて・・。それには、内戦や太平洋戦争での消失、空襲や明治維新の廃城令や徳川幕府の「一国一城令」の影響大でしょう。
しかし、何故か文化振興にかける予算が極端に少ないと思うのは私だけでしょうか?(例えばあの五輪予算・・)実は日本の歴史教育に問題がありそうです・・・?。これはまた別にして、では京都の恩人は太閤さんなのか?たしかに名古屋人である彼は天下をとってからら居城である巨大な大阪城より京都に住まうことが多かったようです。そして京都の街並みの大改革を確かにしてます。
例えばそれまでバラバラな場所にあった強制的にお寺を一か所に集め整理統合します。それが「寺町」・「寺の内」の起こりです。
また都の碁盤の目のど真ん中に南北に道路を通し大胆な区画整理・都市改造を強引に実行しました。
仕上げとして、都の廻りには一揆や外敵の侵入と水害を防ぐよう巨大な城塞を巡らした。それが「お土居」です。
鴨川や宇治川の治水事業含めこのように現在の京都市の基盤インフラを作り上げてくれたてくれたのは彼の大きな功績です。
それ以外にも晩年からは伏見城を中心とした伏見地区の町整備や水利工事に情熱をそそいでくれました。
がしかし明智光秀の功績も忘れてはいけません。確かに彼は織田信長を主殺した件で評価は高くありません。その「本能寺の変」にしても彼が天下統一間近の主人信長を天正10年初夏の時点で殺害する合理的な理由・動機証拠が私には全く見つかりません。今までは怨恨説はじめ様々な説がそれとなくドラマ・書籍等で取り上げてられてますがそれぞれ無理やりのこじつけとしか映りません。
例えば現代の社会に置き換えてみると・・・
例えば、あなたが、日本で有数の大会社の重役とします。会社の業績は非常に好調でもうしばらくすると日本一の立派な会社になるとして・・自分の地位も社長からの信頼も大きく順調に安定している。・・そういった状況で突然社長を裏切り倒すような行動を取るでしょうか?
まぁあり得ませんよね?
では光秀さんの最大の功績とは・・①日本一の山城!「周山城」の築城です。これでこそ「山城」にふさわしい事績です。
さて一体周山城とは?・・・次回に続きます。
※アイキャッチ画像引用元 刀剣ワールドさま