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トリックアートの気まぐれなつぶやき~歴史を斜めに読み解く⑤《本能寺の変その後》編

ともかく光秀は本能寺で織田信長を、二条新御所で織田信忠を打ち取り織田政権の打倒に成功しました。
しかし、光秀には信長・信忠父子の殺害後の具体的な政権構想・指針は十分に描けていなかったと思われます。
つまり具体的な政治行動(EX.明智幕府を作る、全国の諸大名に招集・動員命令をかける等等・・・)を一切とっておりません。

いや、実際にはとりたくとも、とれない想定外の深刻な事情が次々と彼の前に突きつけられて行きます。

その最大の誤算とは・・・。

①信長・信忠父子の遺骸が変後数日たっても全く発見できなかった事(阿弥陀宗僧侶達が素早く持ち出して葬ったとも・・・?)でしょう。

これでは、両者が生きている可能性が残されている以上何の手も打ちようがありません。
このことは、後の山崎合戦での重要な帰趨を左右することになります。
次には

②「事がなった暁には、真っ先に貴殿の元に御味方として馳せ参じましょう!」と硬く約束したはずの有力で信頼のおけるはずの2人の近隣大名、丹後の細川藤孝と大和の筒井順慶が馳せ参じるどころか、便りもよこさず共に本拠地から全く動く気配もなく沈黙を保っていることでしょう。

しかも細川藤孝・忠興父子は「信長公に弔意を表する」として剃髪までしており、味方どころか敵対する意思を表明する不気味な気配であります。

さらにその次には

③同じ近江国内での同胞大名であり、大いに味方として期待していた2人の大名、勢多の山岡景隆、日野の蒲生賢秀が共に光秀の誘いを拒否するという思いがけない事態が発生します。

特に山岡は京と近江を繋ぐ重要インフラの勢多橋をいち早く焼き落とし、公然と光秀に対抗する姿勢を表明します。この抵抗のおかげで、明智軍は安土城、長浜城への進軍と近江へのスムーズな進出を阻まれ、変後の体勢構築に大打撃を受けます。

同時に安土城守備隊長であった蒲生賢秀には、近江半国の恩賞の誘いまで拒否され、安土城放火と信長御台(濃姫か?)の捕縛引き渡しと、秀吉居城の長浜城攻略と秀吉正妻の「おね」、母の「なか」の捕縛・引き渡しも拒否されるどころか、賢秀は信長御台の身柄をいち早く居城の日野城に逃がし硬く保護、匿いまた同時におねとなかの身柄は、伊吹山中へ逃がし保護しております。また山岡・蒲生の両名は、頻繁に光秀軍を間諜・混乱させ、逐一羽柴秀吉宛てに状況を注進しております。

このお陰で秀吉は適格で安心した中国からの進軍行動が可能となりました。

こうして、南近江の情勢は光秀にとって最悪の状況に陥りました。北近江だけは、阿閉氏ら旧浅井遺臣の活躍でかろうじて、制圧することができました。さらに追尾・捕縛するはずの、堺見物中の徳川家康主従一行を撃ち漏らし、無傷で三河への逃亡を許すという大失態も発覚します。

④最後に期待した朝廷・公家衆・寺社勢力からの祝儀・協力は一切得られず、近衛前久などは固く約束したはずの、征夷大将軍・大臣任官の打診の音沙汰すらも無しのつぶてでありました。ここに至り光秀はそれらの勢力に担ぎ挙げられるだけ担ぎ挙げられた挙句に完全に梯子を外された=「嵌められた!」ことに気づくことになります。

こういう状況の中で虚しく数日が過ぎた頃、さらに彼にとって、最悪の知らせが突きつけられます。

あの備中高松で毛利本軍と対陣中であるはずの羽柴秀吉軍が無傷のまま、大阪に入り四国に渡海したはずの、織田信孝軍・丹羽長秀軍さらに池田恒興軍と合流した上に京に向かって急行進軍中である!という驚愕の知らせがもたらせられます。これを聞いて光秀は大いに動転し、最早、正常・適格な判断を下すことが、不可能なパニック状態に陥ってしまいます。でもここに至っても光秀には必勝の奥の手が残っておりました。

それは・・・

そのまま軍をまとめて、周山城に一旦籠城すべきでした。

本拠坂本城に籠城する選択もあったかもですが、前に述べたように南近江の状況から考えると道中も安全ではなく、ここは、周山城に引く一手でした。

この堅牢な天然の要害の山城に籠れば、いかに兵数有利な勢いのある秀吉連合軍でも容易には落とすことは困難です。
少なくとも数か月はかかるでしょう。
さらに、後ろには亀山城と福知山城が控えており十分後詰として機能しますので兵站補給には何ら心配ありません。
また時を稼げば、中国から毛利氏が、四国から長曾我部氏が、北陸から上杉氏が加勢に駆けつけるかもしれません。また関東の北条氏の挙動も微妙です。

そうなると、日本全国が以前のような全国が戦国動乱状況に逆戻りし、これは光秀にとって決して分の悪いことにはなりません。
さらには安土にいるであろう、頼りになる勇将の明智秀満も駆けつけて、背後から秀吉軍を急襲でもしてくれれば、一挙に形成逆転するでしょう。

いずれにしろ、数の上でかなり不利な光秀軍が自分から野戦に持ち込むことは普通には考えられません。
さらに秀吉は慎重に調略の手をうっており光秀に味方する可能性のあった、摂津衆の中川清秀と高山右近あてに、信長が無事で勢多へ落ち延びているという偽情報を素早く発信しておりこれを信じた二人を自軍に取り込む事に成功しておりました。
さらに秀吉は念には念を入れた調略、すなわち、確実な動向がが不明であったであった池田恒興に秀吉の姉の子秀次を一旦自分の養子にした上で、恒興の娘の婿養子として差出すと同時に恒興の次男輝政を自分の養子として迎えるといった複雑な縁組を急遽合戦の直前に纏めて、恒興を味方として確実なものにしております。

そんな状況下で光秀は死地の山崎へと向かいます。
やはり正常な判断が出来なかったのでしょうか?それとも余計な戦略を誰かに吹きこまれたのか?
それは永遠にわかりません。いずれにしろ
京の南の山崎一帯での野戦に誘い出されるように光秀は向かいその後の経緯は、皆さんご存じのとおりです・・・・・。

この項終わり・・・。

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