ナッツにはモンスターボールがない。
そらとぶタクシーの中で、私はブルブル震えながらちっちゃなナッツを抱き締める。ナッツもぶるぶるしていたけど、(記憶にある限り)初めての空の旅が怖いだけのようだった。
「大丈夫ですか、お嬢さん真っ青ですけど」
「大丈夫です」
「…本当にあそこ行くんですか?」
タクシー屋さんとの話を聞いて、私はお別れよりも、嫌な予感がしていた。ウエッと喉を絞る声が出る。
「わ、お嬢さん、吐きますか」
ちがいますと細々言ったのを、お父さんが代弁した。
お母さんがナッツに手を伸ばす。
「もう必要ないでしょ」
「やめて!!」
叫ぶと一緒に、「ポッ」唾と涙が飛ぶ。
「まだ取りやしないわよ。ああもう、そいつが来てからあんた何もしなくなったんだから。ほんと迷惑だったわ、やーっと解放されるー、あーあー」
パチンと音がした。お母さんの手にクシャクシャの紙が握られている。
耳が濁って目がわんわんしていたので、タクシー屋さんが、頭を抱えたのがやっと見えた。
お母さんの言う『預かり屋』に、私はちっちゃなナッツをずっと抱っこしてよたよた向かう。ナッツは私の胸の中で足をパタパタしながらきょろきょろしている。ナッツの荷物はお父さんが片腕にかかえるくらいしかなかった。そらとぶタクシー屋さんは、帰りのために待ってくれている。
5匹のイキリンコが順番を考えずに鳴いた。
『預かり屋』は四角く張っていて、白塗りで、窓がほとんどない。私たちを出迎えるのは銀色の自動ドアだけ。地面もざらざらのただの土。私には入り口に小さく書いてあるマークが読めない。おまけに、『パルデアの大穴』を囲んでいるっていう、高い高い山の崖の出っ張りに作ったみたいな場所だった。ごうごう風の音がする崖の方は、同じ形の柵で囲んであって、とにかくすごく高かった。
ナッツはきょろきょろするのをやめてじっと前を見ている。頭からは、見たことないくらいぼそぼそと、黒い煙みたいな火を出していた。
近付けば…建物に…近付くほど、私の心臓のばくばくは強くなっていく。一歩踏み出すごとにナッツとお別れになるんだ、って考えて足が進まないのもそうだけど、建物そのものがこわかったの。
もっと、あずかりや、ポケモンあずかりや、って言ったらなんだか騒がしそうなものをイメージしていたから。寂しそうな場所に、寂しそうな、カサカサした木がナナメに生えてゆらゆらしてるような場所が、ナッツの居場所になるなんて考えたら地獄みたいだ。
ああでも、ナッツを拾った登山みちも、岩と崖と坂とカサカサの葉っぱがたくさんある場所だったっけ。看板がいっぱいあって。
お母さんの怖い目ににらまれたら、私は守りの力をうしなって、ナッツをずんずん怖いところへ近付けていった。お父さんは、顔がないみたいに見えた。
先頭のお母さんがぴたり、と止まる。スーツ、っていうかたいたかい服を着たお母さんは、私たちに手をやると━━止まれ、数十歩を歩いて建物のピンポンっぽいものを押した。
ピンポーン、ではなく、ブーッ、と音が鳴る。
しばらくして、ィーンッて扉が開いた。
今までだって、白い建物は静かだったけれど、建物の中からも静かな音が聞こえた。そして代わりに、人間のおばさんが出てきた。おばさんも、真っ白服だ。顔も真っ白。私は服が震えでこすれるのから耳をそらして、じっと、静かにおばさんの声を聞こうとする。おばさんは、建物そっくりの白塗りな顔でこう言い始める。
「はい、今日ご予約の方ですね」
「パルデア引き取り所をご利用いただきありがとうございます」
「そちらのポケモンですね。持ってきていただけましたか。こちらも準備がありますから、こどもというのはね、ええ、いつも大人の迷惑ですね。うまく言いくるめられたようで」
「それではこちらが正式な書類です。ボールは廃棄いたしましたか。現金払い、カード払い、分割払い…」
「ナッツ」
私の、声は静かに。そして大きく。
人が、感情を込めずに、叫べると思わなかった。私にはできた。それから、一度も出せてない。そんな機会もう二度といらない。
「ボ……」
私の腕はナッツの不思議な炎から出たすすで真っ黒だった。普段は燃えても燃えても灰のひとつも出なかった。
お母さんがこっちを振り返る━━絵本のオバケみたいな顔!
私は初めて。
つとめて最後にしたいくらい惜しい思いをする間もなく、その場にナッツを落っことした。
「ボ…!」
「おぁ」
グラグラの足と、心臓が飛び出そうな喉で、
「 おぉおおぅううかあああぁぁぁぁああああぁあぁんーーーぅぅぅーーーーぅぁぁあああうううううんんんんんん!!! 」
「ヒッ……! キャアアアアッ!!」
たぶん私の叫び声はそんな風で、とても文字にできないけれど、化け物のお母さんは私を見て叫び。
「(ナッツ!ナッツ!!)」
ボン、とタックルにはちから遠い体当たりをお母さんに食らわす私は頭の中でひたすら名前を呼ぶ。
シューッ、シューッ、って聞いたことない鳴き声が遠ざかる。私が遠くに行ったわけじゃ…いや、そうかも。今にも気絶しそうで、ねえ。
でも遠ざかって欲しかった。
呼んでも来ないで欲しかった。
「ボーウ!!!」
ちからいっぱいを込めた叫び声が遠くで聞こえて、ドンという音、お父さんが悲鳴を上げる。
私はもう声を出せないでいる。ただただ、無茶なことを考える。
ナッツ、この扉の向こうに行ったら、お別れどころじゃ、すまない、なくなっちゃう。来ないで。私を、見捨てて。首を振る振る。ヒーロー・カルボウ・ナッツ、私と一緒にいたら、迷惑なんだよ。私は、ナッツの迷惑なんだよ。お願い、この先とは別の方へ行って、お別れはそうして。ナッツ、
ナッツ!
「い……ったい!パパ!!」
「うっ……こっちも……」
「この…役立たず!!」
ぽーぅ!という哀しげかかわいらしいかの声が、私の中で響いたのか本当に鳴いたのか、その後私はお母さんたちに聞くつもりも機会もなく
「お嬢さん!カルボウが!カルボウ!ビンコ!シンコ!」
「(やめて!やめて!)」
止めないで!そう訴えることはできなかったし、私はそっちを見ることは、とてもできなかった。
ただ、タクシーの上でイキリンコたちが、不規則に鳴いた。
アカデミーに入学できる年齢になって、というかお母さんらとしては、私がモトトカゲドライブができる年齢になるまでひたすら貯金していたみたい。
なんだけど、ちゃんとした寮に入れようとしたら、血統書付きのモトトカゲを買うには結局貯金が足りず。…モトトカゲのブリーダーさん、時々遠くのところの親と交配させないと遺伝子が壊れて、体のおかしな子が生まれるんだ、ってぼやいていたっけ。
結局一人部屋だけ確保された。私としては、別に誰かと一緒の部屋でも良かったんだけどな。ほんとお節介焼き。いい迷惑だ。
というかそれにしたって、
「ピケタウンで一泊してからテーブルシティに行くのよ、ボウルタウンからくだりは看板があるからそれを逆に行くの、わかってるわね?」
それにしたって、娘を急に一泊二日の(疑似)一人旅に出す?
テーブルシティはうち、チャンプルタウンからパルデアのお山をぐるっと一周した向こう側。
叔父さんから大人しくて聞き分けのいいモトトカゲを送ってもらっていて、テーブルシティに着いたら送り返す予定になっている。騎乗技術は兄さんに煙たいくらい教えてもらったから、いいけど。
ピケタウンで一泊…。“いとこんち”としか知らなかったし、この機会に調べると、鉱山で働く人たちが暮らしていて、時々昔の物が発掘されたりする、それを専売してるって人もいるとかさ。
というか私ポケモン持ってないけど、いいの?
モトトカゲは足が速いから、すぐ逃げられるよ。
そういうのじゃなくてさあ、例えば、 と言いかけて背筋が寒くなった。ポケモンを持つ、ってなんだろう。
モンスターボールに入れていれば、あの時崖から転がり落ちるのも見届けられなかった、ナッツのことも助けられたんだろうか。持ったポケモンというのはボールに入れて言う事を聞かせるポケモンのことなんだろうか。例えば…叔父さんのモトトカゲは信頼の目で見てくれたけど、ボールに入ってなければ私を乗せてくれないのかな。
……ナッツのことは、
禁句みたいになっていたけど、
私のずっと使っていたベッドは、私がアカデミーに着いたら処分されるらしい。
「うそでしょ」
不親切なロトムスマホのマップは、ここがプルピケ山道であることしか見せてくれない。モトトカゲは私が体を傾ける方向にしか進んでくれない。
ちょっと道を間違えたと思って、あっちこっち近道裏道を探していたらこれ。モトトカゲがよじ登れない崖を見上げるばかりになってしまった。ここが洞窟であるにしても、外から差し込む太陽の光の色が変わるのは見えていた。
山道の真ん中にポケセンがあるらしいから、そこを頼りに一回休みなさい、どころじゃない、着いてないんだよ。予定だと私は今頃山道を出て一直線なんだよ。いとこんちはそろそろ私が来ると思って色々準備してるんだろうなあ。
めちゃくちゃ迷惑かけるな。
洞窟からそらとぶタクシーは使えない。今から電話して、ごめん迷った、今どこ?で周りの写真送って迎えに来てもらえるだろうか。そうだったらいいね。にしたって、せめてポケセンには着いておこうよ。
呆れるだろうな。自分の馬鹿さ加減に涙が出そうだ。
モトトカゲは私を2回見上げたきりいつでも走り出せるように「キャルル」足をその場で動かして温めている。
私、また迷惑かけるんだ。
物分かりの悪いバカで、いい家族に恵まれておきながら!足がむずむずするんだ、乗ってるのが自転車だったら蹴り飛ばしたいな!モトトカゲに八つ当たりしたい気持ちすら私の中の“この馬鹿”を加速させる。
駄目だ。降りよう。いったん荷物をおろして落ち着こう。苦いお茶とサンドイッチがある。
「ウギャァ」
ずるるる、「はーあ…」岩壁に寄りかかった私は思ったより疲れている。
モトトカゲが私の壁になるように立ってくれる。モトトカゲは戦えるんだろうか、そういえば、レベルや技を確認するの忘れている。準備不足はいつも、出発してから思い出す。ハンカチティッシュ持った?で持ってないタイプなんだよ私は!
寒そうに身震いしたモトトカゲを見て、私も上着、いや寝袋を持ってこればよかったー、って自嘲的に思う。
「━━ゥ ギャア!」
……は。 ばちゃん!
…うそでしょ。
ふいっと立ち上がりかけたモトトカゲが目の前で転げた。ぐちょぐちょまみれ。身震いしかけて、私を見てそれを止める。だらぁ、とヘドロがモトトカゲの体を伝っていく。
「ギャァウ!」
それでも私の方に向かって威嚇するのはやめない。つまり、私たちは襲われていて、
「キィャアアアアーーーッ!!」
本能的に、叫ぶ━━
私のすぐ傍の地面に、べちゃっと泥が落ちた。どこ?どこ!?上?後ろなわけない。だって私の後ろからヘドロえきは投げつけられたんだ!
立ち上がろうとした私は一瞬洞窟に直接射し込む夕陽のキラリを捉えてしまい、目を覆う。
「ゲヘッ…ゲヘヘヘッ!」
見計らったように、ギュウッとハグされて背中から腹にかけて真っ青な体温が包む。上じゃない!
うしろ。後ろ!壁のうしろ!
すり抜け?なんで?まだ夕方じゃないの!「ゴースト、ポケモン…!」モトトカゲが身構える。毒液を振り払えずにぶるぶるする体、目がガタガタ涎だらだらで、あ、どく状態だ。 私が邪魔なせいで。
「うゃあああぁ……」
背中から生えたトゲトゲは突き出た呪いエネルギーだ。ゾワゾワ体温を奪うすり抜ける体。頭から生えた角で悪い感情をキャッチするんだ。大きな目をニヤニヤさせてこちらを嘲笑っているぞ。
私はよく知っている。
私はよく知っていて、それが頭の中を駆け抜けた。
みんなをこわがらせてこまらせる、ゲンガー、おまえなんかにまけないぞ。
「ゲゲッ、ゲゲゲゲ!」
「ギャオォン…!」
モトトカゲは戦おうとしている。でも、ノーマルわざはゴーストに効かない。ドラゴン技も、私に当たってしまうといけない。
なんで、なんで、なんでゴーストポケモンが、日のある内に。ベロを伸ばしてズルリと「ひいいっ」私の体を舐め上げる。臭かった。口から毒を吐いたんだ。だって私の震えが止まらない。熱を出す時とかの震えだうそだうそだうそだ!
「べえっ」と鳴くと、ゲンガーの体の奥からぐちょぐちょ音がして。踏ん張るモトトカゲに、私の頭の上をすり抜けて、
「ギャアアア!!」
ヘドロがばくはつして、むなしくモトトカゲのでかい悲鳴が響く。私はゲンガーの長いベロでがんじがらめ。
「モトトカゲ!もどれっ!」
━━私はバカか。
ゼッタイ絶命の大ピンチ、
しめつけられてもうろうとして、
ちいさな私はいやいやするしかない、
「ゲヘヒャハハハ!」
ぐにゃりと浮き上がって足がぶら下がる。私がか弱くしがみつくまでもなくゲンガーは巻き取っている。
ピシッ、ピシピシ、と鏡が横にひび割れるみたいな音がした。きれいなきれいな、うすっぺらい私が砕け散る音━━
テラスタルポケモン━━!!
それだけは、会ったらガチで逃げろって。遠目でも光ってるからって。その辺りでも場違いに強くて本来の生態とかいくらか無視できるくらい強いって!
「ギュゥーッヒヒヒ…」
「あ…がはッ……」
私を包むギラギラしたベロが脈打ってジュルジュル音を立てた。こうやって生き物からエネルギーを吸い取る。どんなって?言うまでもないでしょ。なんで知ってるかって?
だって、だって…。
死にたくない。死ねばいいのに。
惜しいなあ、って無意味に目頭が熱くなる。あたまぼんやり熱が上がって、体から来るの?出ていく魂から感じるの?
おにびが見える。どくどくしい色だ。おにびが見える。あかあかした色だ。ふたつの動きの違うひのたまだ。ひのたま。ひのたまポケモン。ひのたま大きい。