さて、本編に入る前に、ちょこっと前回の追記。
結局この事件で清盛は法皇の逮捕・処刑はさすがに躊躇・あきらめて、あげく幽閉という軟禁処理で一旦落ち着きを見ます。
その後は法皇の心はそれまでの平家保護の姿勢を完全に放棄し、二人の関係は険悪・離反状態になって行きます。
さらに悩みに悩んだ平重盛はとうとう父清盛と後白河法皇との板ばさみに心身を極限まで病み,ついにその2年後に死の床につきます。
臣下としての最高の地位である正二位内大臣に昇りつめた直後でした。彼の名誉のために付け加えると、決してひ弱な公家武士ではありません。その昔、平将門の乱の鎮圧に大功のあった、平貞盛に下賜された平家重代の宝刀である「小烏丸」(現代には様々な変遷あって伝わり最終的に皇室御物として皇居奥深くに鎮まってます。)の当代の所有者でもあった彼は小烏丸を振るって「「保元・平治の乱」で大活躍し、平家の全盛の世を作るのに、最大の貢献を果たした勇将でもありました。そんな重盛の早世は平氏にとってまさに致命的で、その死からわずか数年後に源氏に一門全員が滅ぼされてしまいました。まさにこの世は無常ですね。
さてさて、本題の「本能寺の変の企画した真犯人は誰か?」ですが、一般には「本能寺の変」は主君の織田信長を家臣である明智光秀が衝動的に京都にいた寡兵の信長を好期到来とばかり滅ぼした事件と思われてますが、
トリックアートはそう単純には思えません。十分・周到に練られた「歴史劇」と考えます。主役は勿論、信長と光秀です。脇役は羽柴秀吉・正親町天皇・池田恒興・徳川家康・長谷川一秀・近衛前久それにルイス・フロイス・千利休その他大勢。脚本・製作・企画者つまり黒幕・真犯人はどうやらこの脇役の中にいそうです。
それではまず、光秀に信長殺人の動機の有無を再点検いたしましょう。こういう事件の真犯人を探す鉄則は
十津川警部や片平なぎささんの登場を仰ぐまでもなく、
①まず殺人によって一番得・利を得た者
②現場に最も近くにいた者または第一発見者
③あきらかに殺害の動機を有するであろう者
が重要参考人となります。
その点光秀はいうまでもなく当然第一重要参考人の資格は十分あると思われます。
①は主君を倒した結果自分が一時的にも「天下人」になり替われた。いわゆる「三日天下人」ですね。結果近年信長から受けた様々な不当な抑圧・仕打ちや責務から解放されました。
②は現場京都本能寺攻撃に総大将でいたのは彼一人ですから当然ですね。
問題は③です。前にも申し上げたように私には全く「動機」が見当たりません。じゃあ全く彼には主君殺しの
動機がなかったのか、と言われるとそうではありません。
①怨恨説:丹波波多野氏攻略の際に人質として差し出した母親を信長の一存で結果見殺しにされたこと。天正10年春の武田氏討伐・甲斐平定の折、家臣全員の前で罵倒・足蹴にされたこと等。
②自分主導で四国の長曾我部氏との間に永年築いた友好関係・約束を秀吉・信長に一方的に反故にされ面目を失ったこと。
③安土城における甲斐武田氏平定の祝賀膳での徳川家康・穴山信君の饗応役を突然解任され、羽柴秀吉配下の支援役を命じられたこと。
④その出陣の前夜に信長からいきなり領地の丹波・近江を召し上げたうえで、敵国領地の山陰二か国に国替えを言いわたれたこと。
などが一般に謀反の理由と言われてはいます。がこの中で深刻なのは、①か④でしょう。④は江戸時代ならいわゆる「お取りつぶし」ですが、こんな無謀なことを、さすが信長でも簡単に決定することはないと思いますし、事実そのような命令書自体自体が一次資料として存在しないことで単なる作り話か風評でしょう。①も同様で、そもそも降伏した丹波波多野氏を処刑したという、一次資料は存在しません。これも風評の類でしょう。しかし全く無視していいのかというとそうではなく、これらの風評が流布するということ自体、本能寺の変の直近に何らかの重度な緊張関係が信長・光秀両者間に存在していたのは事実と思われます。重臣以下廻りの者達もそれを敏感に感じ取っていたのではないでしょうか?ではその緊張関係が生じた原因は?
最大の原因は、光秀のあの周山城築城と思われます。何故か?
実はこの周山という名前に重要な意味があります。
この周山というのは昔の中国において史上三つ目の統一王朝である「周王国」を築いた英雄周文王・武王父子が都と定めた土地の地名です。この地で殷王朝打倒の兵を決起した周がついには殷王紂を討伐し夏→殷→周と続く統一古代王国を誕生させます。つまり、織田信長が美濃稲葉山城の斎藤氏を倒して、手に入れた美濃国の都を岐阜と改名し同時に「天下布武」を表明した岐阜の地名は周王の祖先が住んでいた故郷の名前である「岐山」にちなんで命名したことは有名ですが、取りようによっては「周山城は信長の岐阜城を超える城であり、ひいては信長を超える、つまり打倒して、信長の替わりに自分が天下を収めることの決意の城である!」
という意味に取れなくもありません。このことはおそらく当時の故事に詳しい知識人達はすぐに察したでしょうが、一般には浸透したとは思えません。おそらく信長も
一瞬「えッ、何」?と不快に思ったでしょうがこれ以降以前より大いに信頼していた光秀への見方が多少なりとも変化したであろうことは想像できますが、この件に関して、公衆・家臣達の面前では特に詰問したり、公式に反対表明したような対応は、一次資料には見られないことから表面上では消極的承認=「大人の対応」の形を取っていたと思われます。尤も信長本人が公式に丹波攻略を光秀に命じ、光秀が攻略の拠点として築いた「周山城」ですから、大っぴらには面子もあって反対できなかったというのが真相かも知れませんが・・・。
しかし、個人的な二人だけの対面の場では当然ながら「罵倒・詰問」あるいは、「縮小」「取り壊し」「破却」命令を光秀に強要したに違いありません。勢に
それでも光秀は断固として応じていません。信長も光
秀のこのかたくなな態度に次第に冷淡・過酷な対応をとるようになったと思われます。このような二人の微妙な関係・やり取りを静かにじっと斜から見ていた近臣が羽柴秀吉です。密かにニヤリとほくそ笑んでたかもしれません。特に主君信長の所作・反応・対人との応対関係には非常に敏感で適格に反応できたことで下人草履取りから織田家宿老の地位にまで大出世した機敏な彼がこの時何を考え、 思ったのでしょうか?
あともう一人秀吉と同様に斜めから二人の緊張関係を静かに見て光秀を庇う意味で熱心に忠告したであろう近臣武将がおります。細川藤孝(幽齋)です。前将軍足利義昭の近臣でありながら、義昭の才に見切りをつけ、早くから信長に接近して織田家譜代武将の地位を得た時勢を見るに敏感な才能を持った彼は故事有職にも明るく朝廷や公家衆にも強固なネットワークを持ち、さらに信長からも厚く信用信頼されていいます。長男忠興に光秀の娘をもらってるがゆえに必死になだめ、最低でも城の改名、できれば廃城を光秀に強く進めたに違いありません。これは光秀の為というより自身の保身・安泰のためであったかもしれません。それでも光秀は首を縦にはふらなかったようです。ここで藤孝は、ある恐ろしい考えにふけるようになったようです・・・。
ここで改めて「周山」という地名は光秀自身が命名したことを主張する研究者おられるようですが、これは周山という地名自体は光秀が「周山城」築城する以前から律令制の時代からもともとあって、そのまま光秀が城名に流用したというのが私の意見です。恐らく天正七年の築城開始時には明確な理由は不明ですが、少なくとも打倒信長の意思が彼の心の中に密かに、はっきりと、芽生えていたのではないかと想像できます。それとは悟られない為には例えば「京北城」でも「南丹城」でも「北山城」でも良いわけですから・・・、あえて「周山城」にこだわったのは、彼なりの消極的な決意表明であったような気がします。
信長打倒の意思を光秀に植え付けた有力な犯人候補は、朝廷かも知れません。天皇ご本人というより、天皇を中心とした公家衆・寺社勢力全体でしょう。公家衆では
近衛前久・吉田兼見等。寺社では一向宗本願寺をはじめ比叡山延暦寺や高野山・紀州根来雑賀衆等信長から特に酷い仕打ちを受けた勢力等。特に近衛前久は意外に思われるでしょう。前関白でありこの時期は恐らく「太閤」(秀吉ではありません)と名乗っていた人物ですが、信長とは「鷹狩」という共通の趣味を持ち二人は意気投合し、肝胆相照らす仲であり、相互信頼の武家と公家の関係であったはずでしたが、その綻びのきっかけは、「正親町天皇の退位要求問題」でしょう。これは現代まで様々な議論があり(真逆に正親町天皇から信長に自分の退位を申し出て信長が拒否したしたという研究もありますので)軽々には申せないのですが、信長側からすれば、明敏で器量もある現天皇から一日でも早く息子の誠仁親皇に譲位してもっらったほうが、より意のままに朝廷を牛耳れて都合が良いという思惑があったのでしょう。この事はさすがに、天皇権威の最大の養護者であり弁明者でもあるべき前久にとっても気持ちの良い話ではありません。また新しく築城した「安土城」に天皇引退後の住まいである「仙洞御所」をちゃんと用意しておりますので「一日でも早いご動座を!」という具体的な要求もあったものと思われます。さらに決定的な案件が持ち上がります。いわゆる「三職推任問題」です。その前にも「正倉院蘭奢待切り取り問題」も重なり、朝廷(近衛前久はじめ公家衆)とは決定的な齟齬をきたしていたようです。「三職推任問題」とは、織田信長は、天正五年に武家としては鎌倉幕府三代将軍の源実朝以来である「「従二位右大臣」に昇進したのち、その一年後に理由不明ながら突如辞任しており以降何の官位にもつかず、これを朝廷への反抗・無言の圧力と解釈した朝廷側から信長に「太政大臣」「関白」「征夷大将軍」の中でお望みのものに就いて下さい・・・。と破格の提案をしてみたものの、頑なに断り続けたという問題です。おそらく信長からは交換条件として「正親町天皇退位」を持ち出したのではないでしょうか?こうなるとボールはどちら側にあるのかということで朝廷内では大いに紛糾したことでしょう。頑強な武田氏も滅ぼし、毛利氏降伏もあとわずかと、天下布武の完成も現実に見えてきた信長にとって最早、朝廷の家臣の証である官位・官職に何の魅力も感じなかったかもしれません。
尤もこれら官職に就きたいと思っても簡単ではありません。れっきとした必要条件があります。すなわち自らの姓氏が「源・平・藤・橘」のいずれかでなければなりません。かつ官位が最低でも内大臣以上または天皇の親戚であること。織田氏は既に系図を忌部氏?(異論あり)から平氏に改竄しておりかつすでに右大臣に就任しており、特に問題はありませんでしたが結局本能寺の変により、信長がどうしたかったは、永遠の謎のままです。少なくとも晩年の行動を見るにつけ彼は自らを足利6代将軍・足利義教(別名:恐怖の魔王)になぞらえていたように、私には思われます。そうなると
結局は征夷大将軍なのか?しかし、究極のところ、天皇を超える「神」になることが目指した最終の姿なのでしょう。天津最高神である「アマテラス」の直系子孫であり万世一系を称する天皇家を超えるには、自らが直接「神」になるより他はありません。先ほど織田氏出自で忌部氏と申しましたが、これは実はとても重要なことで、諸説ある中で越前または若狭の何処かの神官の家系忌部氏傍系が有力とみております。忌部氏は一応天津中堅神の「アメノフトダマ」の直系子孫を称しており、これをそのまま信じるなら、この「アメノフトダマ」は「天の岩戸神話」伝承によれば
天の岩戸に閉じこもった「アマテラス」を同じく藤原氏の祖先神である「アメノコヤネ」と協力して天の岩戸の前で懸命に祝詞を奏上して無事「アマテラス」を岩戸からおびき出すことに貢献しており、序列から言うなら
織田氏も天津神直系であり、天皇家とあまり孫色はないと、言えなくはないのです。しかも摂関家である藤原氏と同等以上の家格であるわけです。それをわざわざ何故平氏に改竄したのかは謎ではあります。でも自ら「神」となれば誰にも文句のつけようないことになります。ですから安土城内の総見院の前に岩をしつらえて、「「これをワシと思い朝夕拝むがよい」いと家来・来客に強要したのもうなずけます。このような行為自体が朝廷・公家衆・寺社衆の反発をさらに買ったのにとどまらず、光秀・幽斎といった有力家来衆勤王派諸侯達も「信長不要→打倒」論に急速に傾いていったのでしょう。
最後に忘れかけていた重要な有力候補者がもう一人おります。
それは、何と信長の嫡男であり、跡継ぎの立場である織田信忠です。何故なのか?
彼は上記のような立場ではありましたが、信長からの評価は今一つであったようです。それは
①徳川信康
②長曾我部信親
の存在です。
①は徳川家康の嫡男であり実際、最有力後継者でした。武将能力・政治力・カリスマ性を兼ね備えたある面では家康以上の優秀な武将でした。一次資料はありませんが,信長は信忠廃嫡の上、信康を跡継ぎ養子に迎える気があったと思われます。無論、家康の答えは「ノー」だったでしょう。これも信長の不興を買う原因になったのでしょう。
②は公平に見ても①以上の器量・能力の持ち主であり、
個人的に私は戦国武将のベスト3に挙げられてしかるべし武将と思っております。信長自身も信親の稀有な器量に大いに惚れ込んで、本気で自分の跡取り養子として迎えたいと父の長曾我部元親に要請しており、最後最後には信長秘蔵の宝刀である「左文字」まで差し出して懇願しております。が結局元親は首を縦にふりませんでした。信長が晩年に長曾我部・四国政策を急転させたのはこの不興からではないでしょうか?
いずれにしても何かにつけて事ある折に、父信長からこの優秀な跡取り二人と比較され、こき下ろされた信忠は正直心中穏やかではいられなかったでしょう。
また信忠には父に対して密かに思うことが二つありました。
その第一は自らの最大の娯楽・趣味である、「能」を信長より無期限禁止を申しわたされたことでしょう。「能にうつつをぬかすことは全くの無駄で無意味なことである」と一方的に申し渡されて所蔵の能面・衣装道具一式を信長に召し上げられております。「そんなにこの私が信用できないのか」と無力感にとらわれたことでしょう。
第二は「松姫との婚約破棄」でしょう。
松姫とは甲斐武田信玄の四女であり、元々親武田である信長の基本方針に従い両家の絆を深めるべく、信忠と松姫の婚姻を前提として信玄と取り交わした約束でありましたが、思いかけずの信玄の駿河・遠江侵攻により破談となりましので決して信長のせいではないのですが、信忠としては面白くありません。
当時ですからインスタもラインもない時代お互いの「似せ絵」が唯一の情報だけで愛をはぐくんだ若い二人にとっては残念な別れであり、信忠はさらに無力感に拍車をかけることになったのでしよう。しかもその松姫が一時的に勝頼から避難していた信濃・高遠城を「お前が総大将になって攻め落とせ」と信長から命令された信忠は絶望感にさいなまれたことでしょう。
これだけのこで、実の父である天下人を打倒する勇気が彼にあったとは思えませんが、十分に動機はありそうです。
最後に徳川の家臣が江戸時代に書いた「三河物語」には
以下に描かれています。本能寺変の早朝信長が、攻め寄せるトキの声が上がった時の第一声が「城介、別心か?」つまり「信忠め、裏切りよったか?」とつぶやいたとなっているのを参考にあげておきましょう。この書物自体個人的には??なのですが・・・。
以上④おわり